天亀そばを偲ぶ
西川口駅西口を出ると、左手に安い飲み屋が軒を連ねる路地がある。その入り口の角で40年余りにわたり、幾多の通勤客、酔客を見つめてきた立ち食い系そば屋「天亀そば」が3月31日で閉店するという悲報が届いた。筆者はあいにくタイで越冬・花粉症疎開中であり、その最期を看取ることができないのは痛恨の極みだ。
酔客の灯台として西川口駅西口のバスプールを照らし続けた天亀そばと出会ったのは、西川口に中古マンションを購入して引っ越してきた2004年ごろのことだ。かれこれ15年間の付き合いというわけだ。当時は昼夜分かたず、勤務時間の一定しない仕事をしていたが、午前様でも夜勤明けでも24時間営業のこの店に立ち寄り、温かいそばを啜ることは一瞬の安らぎであった。
決して小綺麗な店ではない。昭和には至るところに見かけたL字形のカウンターを囲んで、元は風俗街として名を馳せた西川口の駅を行き交うさまざまな人たちが一杯のかけそばを媒介として交差する。冒頭に立ち食い「系」と書いたのは、店構えはどうみても立ち食いそばなのだが、狭い店内に一応6-7席の丸椅子がびっしりと設えてあるからだ。いっそ立ち食いにすればよいのにと思うのだが、デブ同士が隣り合うとむさ苦しいことこの上ない。
決して特筆すべき旨さではない。かけそばが210円という値段では誰も文句など言わない。長年200円で最近値上がりしたとはいえ、奇跡的な安さに変わりはない。それでも出汁は大量の削り節でちゃんと取っているし。天ぷらはちゃんと店で揚げている。個人的にオススメは春菊天だ。朝には卵入り天ぷらそばにいなり寿司2ケが付くという、マクドナルドのバリューセットも太刀打ちできない、まるで東海地方のモーニングかと思わせるコストパフォーマンスを誇る「朝食サービスセット」(370円)が独身サラリーマンに活力を与えていた。
決して店員の愛想が良いわけでもない。従業員は入れ替わりこそしたものの、初老の男性数人と小太りのおばちゃんのシフト勤務だ。店外では毎朝、ネギ切りカッターをフル稼働させ、おばちゃんが大量のネギを捌いていた。寒い冬の日には従業員がそばを茹でる湯に缶コーヒーをぶち込んで加熱し、何食わぬ顔でそばも茹でていたことは不問に付そう。
決して客層が良いわけではない。化粧の奥にも疲労困憊ぶりが見て取れる水商売帰りの女性がいたかと思えば、終電帰りのサラリーマンは注文したそばに手を付ける前にカウンターに突っ伏して寝込んでいる。その安さゆえか、困窮しているであろう外国人留学生の姿も多かった。かつてカウンターにはプラスチック製のごますり器が置いてあって、自由に使えたものだが、「置いても置いても持っていかれる」と撤去されてしまったのは数年前だ。
たかがどこの駅前にもありそうな立ち食い系そば屋だと言ってしまえばそれまでだ。しかし、近年急速にチャイナタウン化が進む西川口駅前にあって、敢然と日本的な何かを守り続けてきた天亀そばがその暖簾を下ろすというのは、時代の節目なのだろうか。そこには「富士そば」にも「小諸そば」にもない何かがあった。閉店の報に感傷的になる西川口住民はきっと自分だけではなかろう。亀は万寿だというが、ついに天に召されるその時は来た。